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通算20年務めたパラアイスホッケー日本代表の監督を、3月のミラノ・コルティナ冬季パラリンピックを最後に退任した。もう一つの顔は総合電機メーカー、日立製作所の役員だ。「両立は簡単ではなかった」という国際ビジネスマンは、退任後も「AI(人工知能)時代のスポーツの展開に取り組みたい」。今後も〝二刀流〟を続けていく所存だ。(聞き手 小川記代子)
アジア太平洋州を統括する立場として、普段はシンガポールを拠点にしています。きょうはニューヨークでの仕事を終え、午前4時に日本に到着しました。シンガポールはもう9年、その前はインドで3年暮らしていました。
《6歳で始めたアイスホッケーは、本場・カナダの高校に留学、米国の大学でも続けた》
北米のプロリーグであるNHL入りを目指していましたが、夢をかなえることはできず、日本で就職。アイスホッケーからは離れました。
《営業マンとして海外での仕事も増えた30代後半、運命の出合いが…》
車いすバスケットボールを指導している部下が「アイススレッジホッケー(現パラアイスホッケー)の日本代表監督を探していたので推薦した」と言うのです。私はパラアイスホッケーを知らず、見たこともありませんでした。日本代表が練習している長野県岡谷市のリンクに行くと、ソリ(スレッジ)に乗った選手たちが激しい当たりをしている。その迫力やのびのびしたプレー、久しぶりのリンクの氷の匂いも相まって「やります」と言っていました。自分を育ててくれたアイスホッケーのために何かしたいという思いもありました。
《パラアイスホッケーは下肢に障害のあるプレーヤーがスレッジに座って、スティックを氷に突いて動き、反対側でパスやゴールをする。激しさからアイスホッケー同様、「氷上の格闘技」と呼ばれる。平成14年、監督に就任した》
休みはすべて指導で埋まりました。仕事を終えた金曜夜に岡谷市に向かい、リンクが空いている早朝や深夜に選手に向き合う。合宿や遠征で休むこともある。そんな生活を上司や同僚がサポートしてくれました。お客さんも「今度、応援に行くか」と言ってくれる。恩返しのためにも仕事も一生懸命、頑張りました。
追い込みのために海外の強豪と試合をしたかった。ある役員に「自分はこういうことをしている」と支援依頼のメッセージを送ったら、すぐに日立のグループ会社に話を回してくれて…。おかげで海外遠征ができました。
《自身初のパラリンピックであるトリノ大会は5位、22年のバンクーバー大会では銀メダルを獲得。26年のソチ大会は出場を逃し、30年の平昌大会は8位だった》
周囲のサポートで続けていましたが、理事に就き、状況が変わりました。一層の覚悟を持って、自社のアジア拠点を育てていかなければならない。「仕事の基盤がしっかりできるまでは二刀流は無理だ」と令和元年、監督を退きました。
12年のフランス・アルプス大会でのメダルを見据え、新旧交代をやり遂げるためです。若い選手も育ってきた。今年のミラノ・コルティナ大会は8位という結果でしたが、後進にいろいろ伝授して終えられたので中身は濃かった。身を引きます。私は人に任せられない世代ですけど、それはよくないですからね。
人間がAIに置き換わりつつある世の中で、人間が人間としてやっていくためにスポーツは欠かせない。AIがスポーツをして素晴らしい成績を出しても何も面白くない。スポーツを守るための何らかの活動に携わっていきたいです。
仕事だけでなく、何か違うものを持ってほしい。自分のバランスを保つことができるし、互いが伸びて、相乗効果も出てきます。私の次のステップもハチャメチャになるかもしれませんが、頑張ります。
なかきた・こうじん
昭和38年、高松市生まれ。米国の大学を卒業後、63年、日立製作所入社。平成14年から令和8年まで(元年から5年までを除く)パラアイスホッケー日本代表監督として、冬季パラリンピック4大会で指揮を執る。平成29年に理事、日立アジア社会長、日立インド社会長。31年、執行役常務。