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元プロボクサーでタレントとしても活躍したガッツ石松=本名・鈴木有二=さんが6月2日、76歳で亡くなった。「オーケー牧場」などユニークな発言が注目されるが、世界の主要ボクシング統括団体が2つしかなかった時代に、ライト級(体重約61.2キロ以下)という世界的にも層が厚いクラスで日本人初のチャンピオンとなり、5度も王座を防衛した功績はもっとたたえられるべきだろう。持前のハングリー精神で世界の頂点に上りつめた原点には、貧困だった少年時代がある。
2年前の夏、ガッツさんにお会いした時は、体調が悪そうだった。蒸し暑い日だったが、「撮影もするんだろ」とわざわざ背広を着て、外に出てきてくれた。「変ななり(格好)をしているわけにもいかんだろ」と語った姿には、世界チャンピオンとしての矜持(きょうじ)がにじんでいた。立つことさえ体がつらそうで、ふらつき、歩くのもままならない様子に、「ここのところ、良くないんだ…」と言った。撮影を早々に切り上げ、自宅に戻ってもらった。
その前の年にもお会いしたが、その時は元気で、何度もボクシングのポーズを披露してくれた。急激な変わりようを見て「病気でないといいが…」とずっと気がかりだった。
何度かおじゃまさせてもらった自宅兼事務所は、東京・中野にあった。急行停車駅から徒歩数分の邸宅は、閑静な住宅街の中でも目立つ建物だ。「オレが拳で建てた家だかんね」と、ガッツさんは胸を張った。まさに裸一貫、故郷の栃木県を飛び出し、プロボクシングの世界で夢をつかみ取った。現役引退後は事業の失敗などで数億円の借金を背負ったとも聞くが、〝城〟を守ったガッツさんはどこか誇らしげだった。
故郷は栃木県西部にあった清洲村。現在はこの村は存在せず、後に粟野町と合併し、現在では鹿沼市の一部となり、地図を見ると施設名に「清洲」という名称が散見される。「田んぼ、畑、山、川。自然に囲まれた、何もないところだよ」とガッツさんは語った。4人きょうだいの次男坊で、家が貧乏で食べるものさえままならなかったという。「おふくろは土木作業員。おやじは農業を手伝っていたが、酒を飲んだりして働くのが好きじゃなかった」。家計は主に母親が支えていた。
けんかが強く、ワルで有名だったガッツさん。「俺が道を歩くと、みんなが避けるんだ」と振り返る。近くでメロン、スイカ、柿など果物や野菜が盗まれると、決まってガッツさんに疑いの目が向けられた。「あそこの有二がやった」「あいつならやりかねない」。〝ぬれぎぬ〟がほとんどだったが、警察沙汰になったこともある。ガッツ少年はじっと耐え、「今に見てろよ、と。負けん気につながったね」と回想した。
昭和40年、中学の卒業式が終わるや2日後に上京した。「田舎から逃れたい」一心だった。「出る時は『石もて追われる』という気持ちだったね。見返してやろうという気持ちもあった」と、語気を強めたことを思い出す。
列車で上京する際、母親から聖徳太子の肖像画が描かれた千円札(当時)を受け取った。大卒の初任給が2万円強とされた時代だ。中学時代にアルバイトで稼いだお金を「家計の足しに」と母親に渡していた。母親は使わずにためていたその千円札を、ガッツさんはとても使うことができず、毎晩枕の下に置いて寝ていた。「今でも使わずに大事に持っているよ。ほら」と、額に収めた千円札を自慢げに見せるガッツさんは優しい表情だった。