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1992年初夏、住宅金融専門会社(住専)の再建は、土田正顕の後任となる大蔵省銀行局長・寺村信行に引き継がれた。同年7月末には、日本住宅金融(日住金)の母体である三和銀行(現三菱UFJ銀行)が銀行局宛てに住専問題の概要を報告したメモが残る。
そのメモは、住専問題の難しさを次のように指摘した。「この問題が難しいのは、一番体力のある都市銀行が大して(住専に)貸してなく、もっとも弱い系統(農林系統金融機関)が一番コミットしていることだ。いずれにせよ、全体としての旗降り役がなく、かつての海運・造船再建のようにお互いがバーターになるところがないために、みんなで協調してやろうとならない」
続けて、三和銀行側は自らの立場と他行の姿勢を述べたという。「当行は旗を振る腹を固めているが、ほかの都銀はついてこない。自分のところで手一杯で、ほかのところは倒れても知りませぬ、とまで言っている」
これは三和銀行側の一方的な主張にすぎなかったが、その反面で住専問題の本質を突いていた。
1992年3月末時点で、住専7社への金融機関の融資残高は約15兆円。このうち農林系金融機関が42%、信託銀行と長期信用銀行を合わせて25%を占めた。一方、都市銀行は全体の9%弱にとどまり、母体行の融資も全体の4分の1しかなかった。
さらに、住専はいずれも複数の母体行を持っていたため、経営不安が特定の母体行の信用を揺るがすリスクは限定的だった。このため都銀の間では責任意識が薄く、当時の銀行局幹部は「むしろ経営が破綻すれば、融資残高に比例する『貸し手責任方式』で処理され、負担が軽減されるのではないかと期待する雰囲気すらあった」と振り返る。