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大阪松竹座閉館:道頓堀五座の歴史と終焉

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Haruki Sato
経済 - 24 6月 2026

大阪松竹座(大阪市中央区)が閉館した。5月2日から26日まで開催された「大阪松竹座さよなら公演」と銘打った「御名残五月大歌舞伎」が、103年にわたる劇場の歴史に終止符を打つ公演となった。今後、建物の解体工事が始まるが、跡地の具体的な利用計画はまだ公表されていない。

再開発にあたって、新たな文化芸術の拠点を設けてほしいという声が各所から上がっていると聞く。さまざまな指摘や提案があるが、その中に時折、松竹座を江戸時代に官許された道頓堀の5軒の芝居小屋、いわゆる「五座」の伝統を継承する劇場だという意見が見受けられる。ある意味で正しいが、厳密に言えば、松竹座は「五座」ではないので、正確ではない。

劇場街としての道頓堀の歴史は、17世紀にさかのぼる。慶長17(1612)年に成安道頓によって起工され、元和元(1615)年に完成した。東横堀川と西横堀川の間を連絡する排水路であり、当初は新川と呼ばれていたが、「大坂夏の陣」で戦死した道頓を追悼する意味合いで、「道頓堀」と命名されたという。

道頓の徒弟であった安井道卜(ぼく)が、川沿いの土地の開発を進めた。新たに開かれた土地に賑わいを生み出すべく、芝居小屋も開業する。承応元(1652)年には許認可制度である「名代制度」が導入され、官許の証しである「櫓(やぐら)」が小屋の正面に高く掲げられた。

盛期には歌舞伎6座、浄瑠璃5座、からくり1座の計12座が軒を並べたと言われる。また、川沿いには芝居茶屋が数十軒も並んだ。さらに、近隣の裏通りなどに、節談説教、からくり、落語、見せ物などの小さな小屋が開設され、界隈は大いに賑わった。

元禄16(1703)年には、竹本義太夫が設けた人形浄瑠璃の小屋である竹本座で、1カ月ほど前に起きた心中事件を題材に近松門左衛門が劇作した「曽根崎心中」が初演されている。実際に起きた話題の出来事をいち早く舞台化する「世話物」と呼ばれるもので、その生々しい内容が評判をとった。それ以後、「心中もの」が人気を集めるきっかけとなった。道頓堀は、従来にない作品が創作される場であり、また、新たな流行を生み出す発信地であった。

宝暦8(1758)年、歌舞伎狂言作者である並木正三の『三十石艠始(さんじっこくよふねのはじまり)』が、角の芝居(のちの角座)で上演された。このとき、場面を瞬時に切り替えるために、独楽(こま)まわしにヒントを得て、舞台の上に円形の台を載せて回転させる仕組みが用いられた。これが世界初の「まわり舞台」だとされている。道頓堀は、新しいエンターテインメントの演出法が試みられる場所でもあった。

道頓堀は、興行街として大いに栄える。しかし天保13(1842)年、綱紀粛正と奢侈(しゃし)禁止をうたう、いわゆる「天保の改革」によって、寄席や芝居に対する規制が強化された。道頓堀の興行街も対象となり、多くあった劇場は筑後の芝居(大西の芝居)、中の芝居、角の芝居、若太夫の芝居、竹田の芝居の5軒に整理された。

いわゆる「道頓堀の五座」は幕藩体制下にあって、劇場街の統制によって制度化され、固定化されたものだ。小屋主や劇作家たちが創意工夫を競い合い、人々に楽しみを提供した興行街の本質は、「五座」に整理される前に確立されたと見てよいだろう。

また近代化以降、「道頓堀の五座」の枠組みは揺れ動いた。興行の近代化と市民の好みに応じ、新派劇、新国劇、連鎖劇、活動写真、演芸など、時代とともに舞台にかかる演目も変化する。由緒ある「五座」の経営も変化を見る。筑後の芝居(大西の芝居)が浪花座に、中の芝居が中座に、角の芝居は角座、竹田の芝居が弁天座にそれぞれ改称した。これに、かつてあった角丸芝居を復興させた朝日座が加わり、新たな「五座」の概念が成立することになる。

今回はここまでで紙幅が尽きた。次回、道頓堀の五座の終焉(しゅうえん)と、大阪松竹座の歴史に筆を進めたい。

はしづめ・しんや。大阪公立大学大阪アーバンデザイン&マネジメントセンター所長(大阪公立大特任教授)。京都大大学院、大阪大大学院修了。工学博士。大阪市立大教授、大阪府立大特別教授、大阪公立大特別教授を経て4月から現職。大阪・関西万博の誘致案策定にあたって中心的役割を担った。大阪府出身。65歳。

編集部注:この記事はAIを使用して作成されており、産経新聞の記事を元に、内容を変更せずにリライトしたものです。
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