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1945年4月7日、世界最大の戦艦「大和」は沖縄沖で米軍機動部隊の攻撃を受け、沈没した。沖縄救援を目的としたこの出撃は後に「無謀かつ無意味」と批判されることが多いが、日本海軍にとっては組織の存続と名誉をかけた「組織防衛」の意味を持つ作戦であった。
当時、沖縄戦は日本軍の劣勢が決定的になりつつあった。米軍は1945年4月1日に沖縄本島への上陸を開始し、日本軍は陸海空の全力を挙げて抵抗したが、物量で勝る米軍を前に戦況は悪化する一方だった。そうした中で大和を含む第二艦隊は、蓄えられた最後の燃料を投入して沖縄へ向かった。それが米軍の圧倒的な航空戦力の前に事実上の特攻作戦に等しいものであることを、軍首脳部も熟知していた。
作戦決定の背景には、軍令部と連合艦隊司令部の間の複雑な事情があった。艦隊を温存して本土決戦に備えるべきだという意見がある一方で、沖縄の守備隊を「見殺し」にすれば海軍の威信が大きく損なわれるという懸念があった。また、大和を出撃させずに終戦を迎えれば、巨額の国費を投じて建造した戦艦の存在意義そのものが問われるという論理も働いていた。
歴史家の間では、この出撃を「組織防衛」の観点から解釈する見方が有力である。海軍指導部は、戦後の軍縮や解体の過程で海軍の名誉と交渉力を少しでも保持するため、最後まで戦い抜く姿勢を示す必要があると考えた。すなわち、大和の出撃は軍事的な勝利を期待して行われたものではなく、組織としての体面と結束を守り、戦後の処遇を有利に導こうとする政治的な判断が働いていたとされる。
結果として、大和は米軍艦載機約380機による波状攻撃を受け、魚雷約10本と爆弾約7発を命中させられて轟沈した。乗員約3,332人のうち生存者はわずか269人に過ぎなかった。この出撃によって戦局が変わることはなく、戦艦の時代の終焉を象徴する出来事となったが、海軍が選んだ「組織防衛」の論理は、その後の組織の行動様式を決定づけることになったのである。