
熊本県・不知火海の夕日が海面に反射してきらめくのを見て、東京から遊びに来ていた2歳上のいとこが言った。「あのギラギラしているの、水銀なんでしょ」。当時小学生だった米田恭子さん(61)は、冗談とも本気ともつかないその言葉に腹が立った。「バカなことを」。そう思ったという。
米田さんの両親は津奈木町で自営業を営んでいた。隣の水俣市に工場を構えるチッソの関係者とも仕事のやり取りがあった。水俣病の原因が工場廃水にあると知りながらも、「働いている人は悪くない」と一家は一貫して同情的だった。
だが地域の空気は違った。チッソから補償金を受け取った患者たちを指して「奇病御殿を建てた」「高い腕時計を二つもはめている」と陰口をたたく大人たちがいた。その言葉は子どもたちの間にも広がり、日常的に差別的なまなざしが患者に向けられた。米田さん自身も「水俣病に対して、漠然と反発を感じていた」と振り返る。
社会の偏見は、やがて米田さん自身にも向けられることになる。地元を離れ、進学や就職でほかの土地へ移ると、今度は自分が「水俣出身者」として差別の標的になった。40代になって体に異変が現れ始め、水俣病の症状かもしれないという不安と向き合うことになる。
「あの時、自分が患者たちに向けていた視線が、いま自分に返ってきたんだ」。米田さんはそう語る。差別の連鎖は、当事者になるまで気づかれないことが多い。70年を超える水俣病の歴史が、いまなお個人の内面に刻む傷の深さを示している。