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来年の大河ドラマ『豊臣兄弟!』の放送を控え、戦国史最大のミステリーとも言われる「本能寺の変」への関心が高まっている。天正10年(1582年)6月2日、京都・本能寺に宿泊中だった織田信長は、重臣・明智光秀の謀反によって自害に追い込まれた。「敵は本能寺にあり」の名言で知られるこの事件は、これまで数多くの研究や推理の対象となってきたが、今なお「黒幕がいたのではないか」とする説が根強く存在する。
通説では、光秀の単独犯行とされている。徳川家康への接待役を外されたことへの不満、信長による折檻の数々、四国政策をめぐる対立など、動機は様々に語られる。しかし、事件のあまりのタイミングの良さ、そして光秀がわずか13日で「三日天下」に終わったことから、背後に別の勢力の影を指摘する声は後を絶たない。
まず有力視されるのが「朝廷黒幕説」だ。信長は当時、皇位継承問題をめぐって正親町天皇と対立していたとされる。信長が天皇の譲位を強硬に迫ったとする諸記録を根拠に、「朝廷が光秀を抱き込んで信長を排除した」という構図を描く研究者は少なくない。光秀が政権を握った際、朝廷から「征夷大将軍」ではなく「将軍職」の任命を打診された事実も、この説を補強する材料となっている。
また、「豊臣秀吉黒幕説」も根強い。本能寺の変の直後、備中高松城攻めの最中にいた秀吉は、驚くべき速さで京都へ引き返し、山崎の戦いで光秀を撃破。その後の天下取りへの道筋を一気に整えたことから、「全ては秀吉の仕組んだ計画ではなかったか」との推理が繰り返し唱えられてきた。光秀の首級がただちに秀吉の元へ送られ、詳細な事情がうやむやにされた点も、疑惑を深める要因だ。
一方、イエズス会やフランシスコ会などキリスト教宣教師の関与を疑う説もある。南蛮貿易の利権を巡り、信長と寺社勢力との関係が複雑化する中で、「国際的な謀略がからんでいた」とする見立てだ。しかし、いずれの説も決定的な同時代史料に欠けており、学界では「黒幕の存在を裏付ける一次資料は確認できない」との慎重な指摘が支配的である。
「本能寺の変」をめぐっては、信長の遺体が見つかっていないことや、光秀がなぜ本能寺の警備を手薄にさせたのかなど、未解明の謎は尽きない。黒幕説の真偽はいまだ歴史の闇の中だが、大河ドラマを機に改めて問い直す動きが活発になることは間違いない。巷の関心が高まる中、歴史研究の世界でも、新たな史料の発見や解釈への期待が静かに高まっている。