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「お前はもう死んでいる」。昭和58年に週刊少年ジャンプで連載が始まった『北斗の拳』は、核戦争後の荒廃した世界を舞台に、北斗神拳の伝承者ケンシロウが悪と戦う姿を描き、子どもたちを熱狂させた。その原作を手がけたのが、長野県出身の漫画原作者・武論尊さんだ。生まれ育ったのは、山と田んぼに囲まれた貧しい農村。新聞配達で給食費を稼ぎ、学校公認の「田植え休み」に違和感を抱えながら過ごした日々を、自身の言葉で振り返ってもらった。
武論尊さんが生まれたのは、長野県岸野村(現・佐久市)。見渡すかぎり山と田んぼが広がり、その向こうには八ケ岳連峰や浅間山が望めた。夏は川遊びや魚釣りに夢中になり、秋にはイナゴやアケビ、キノコ、山菜を採って遊ぶ。勉強は嫌いだったが、友達と会えるのがうれしくて、学校へは元気に通う子どもだったという。
家庭は祖母、両親、子ども6人の9人家族。田んぼはわずか5反歩(約5千平方メートル)しかなく、暮らしは「赤貧」だった。父は冬になると山仕事に出て、子どもたちは毎朝、新聞配達に駆り出された。集落のほぼ半分を6人きょうだいで担ったといい、武論尊さんは小学校に入る前から近所の5軒ほどを担当。「もう、すでに労働力ですよ、ある意味ね」と当時を振り返る。
配達の報酬から、きょうだいはそれぞれ100円か50円をもらい、残りは両親に渡した。「たぶんそれが給食代になっていたと思います。給食費は、自分たちで稼いでたんですね」と武論尊さん。さらに、田植えも小学校入学前から自分の持ち場が決まっていた。「ここだけお前やっとけよ」と言われ、春と秋に設けられた「田植え休み」「稲刈り休み」は、農家の子にとっては休みではなく働き詰めの1週間だった。一方、市街地の子どもたちは普通に休んで遊んでいる。「いいな、と思ってたもん。『俺は田植えやってんのに、あいつら遊んでんだ』って」。
学校でも貧しさは隠せなかった。当時の教科書は有償で、3歳違いの姉のお下がりを使うことが多かったという。改訂でページが変わっているため、先生に「隣のを見ろ」と言われ、隣の子の教科書をのぞき込んだ。布製のランドセルに、上履きはわらで編んだ草履。それでも「屈辱というより、もう慣れてました」と淡々と語る。団塊の世代で子どもの数も多く、中学を出て高校へ進まない同級生もクラスに10人ほどいた。「まだ戦後十何年でしたからね」という言葉に、時代の重みがにじむ。
のちに『北斗の拳』『ドーベルマン刑事』『サンクチュアリ』など数々の名作を世に送り出した武論尊さん。本名は岡村善行。別ペンネームの史村翔と使い分けながら、ストーリーの幅を広げてきた。過酷だった少年時代の経験は、どんな物語を生む土壌になったのか。その原点を語るインタビューは、次回へと続く。