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1582年6月、本能寺の変で織田信長が倒れた後、わずか数日のうちに山崎の戦いで明智光秀を打ち破った羽柴秀吉。彼が主導する形で開催された「清須会議」は、織田家の後継者を決める歴史的な協議として知られる。だが、この会議の真の意義は、そこで出された結論そのものではなく、会議が終わった後に始まった、より激しい「せめぎ合い」にあった。
清須会議で後継者に指名されたのは、信長の嫡孫である三法師(後の織田秀信)だった。まだ幼い三法師を立てることで、実権を握ろうとする秀吉と、信長の重臣として長年織田家を支えてきた柴田勝家との間には、会議の前から深い亀裂が走っていた。会議の場では表向きの合意がなされたものの、出席者たちは誰もが、この決定が一時的な安定に過ぎないことを悟っていたという。
特に注目すべきは、この会議を取材・分析した真山知幸氏の連載「秀吉を天下人にした男、豊臣秀長の実像」第33回の視点だ。真山氏は、会議後の動きこそが、その後の天下統一の行方を決めたと指摘する。秀吉は会議の直後から、勝家との全面対決に備えて着々と布石を打ち始める。一方の勝家も、越前へと戻り、北陸での勢力固めに奔走した。表面上は協力関係を装いながら、両者の間ではいつ決裂してもおかしくない緊迫した空気が流れていた。
実際、清須会議から約9か月後、両者は賤ヶ岳の戦いで激突する。勝家は自害し、ここに織田家の実権は完全に秀吉の手に渡った。歴史の教科書では、清須会議は「後継者を決めた会議」として簡潔に語られることが多い。しかし、その背後には、会議の場では決して表に出ることのなかった、人間の欲望と計算がうごめいていたのである。