
1997年4月22日午後3時(日本時間23日午前5時)過ぎ、筆者は72人の人質解放に向けてリマの日本大使公邸への武力突入が「週明け(21日)にもある」と予告した前日の朝刊記事の件で、厳重注意の呼び出しに応じ、日本外務省の現地対策本部に向かう準備をホテルでしていた。すると、つけていたテレビからけたたましい銃声音が響き、画面には大使公邸が映し出された。午後3時23分、ペルー軍特殊部隊による突入がついに決行され、事件発生から127日目であった。
直ちに取材に出ていた渡辺浩生記者と佐野領記者に公邸へ急行してもらい、筆者は東京の外信部に一報を入れ、号外用記事に取りかかった。突入作戦は30分ほどで終了し、午後4時半前には防弾チョッキ姿のフジモリ大統領が公邸に姿を現し、突入兵士たちが大統領を取り囲むようにしてペルー国歌を歌い出した。
人質は日本人24人を含む72人。銃弾を受けて死亡したペルー最高裁のカルロス・ジュスティ判事を除く71人が救出されたが、突入部隊はファン・バレル大佐とラウル・ヒメネス大尉の2人が死亡した。「トゥパク・アマル革命運動(MRTA)」の犯人グループ14人は全員射殺された。
22日夕、筆者が説教を受けるはずだった現地対策本部があるホテルでは、解放された青木盛久大使らの記者会見が行われた。
翌23日には大統領府でフジモリ大統領自らが、公邸の模型を使って「チャビン・デ・ワンタル作戦」と名付けた突入作戦の概要を説明した。