
2000年生まれの筆者は、幼い頃から「女性も男並みに働く時代だ」「女性こそリーダーシップを持ってグローバルに活躍すべきだ」といった言葉を浴びて育ってきた。努力して上を目指し、自ら道を切り拓くことこそが、ジェンダー不平等を打破する唯一の手段だと信じていた時期がある。しかし、その内実は社会構造の変革を求めるのではなく、個人の努力に責任を転嫁する「ネオリベラル・フェミニズム」的な発想に基づいていた。今思えば、そうした価値観を疑うことなく内面化していたのである。
そんな筆者にとって、女性の健康課題をテクノロジーで解決する「フェムテック」という概念は、輝かしい「希望」のように映った。月経や妊活、更年期といった、これまで公に語られることの少なかったテーマに最先端の技術が光を当てる。このグローバル産業の台頭は、単なるビジネスの拡大を超えた社会的な意義を感じさせるものだった。女性リーダーたちが活躍するこの分野こそが、ジェンダーギャップを埋める鍵になると確信していた。
筆者は20歳の時に起業を決意し、女性向けトランクスの「おかえりショーツ」を世に送り出した。当時、メディアは筆者を「女子大生フェムテック起業家」という肩書きで紹介し、大きな注目が集まることとなった。商品は順調に売れ、実際に生活が楽になったという切実な声が届くたびに、自分の活動に確かな手応えを感じていた。女性の生きづらさをテクノロジーの力で少しでも解消できているのだと、誇りを持っていたのだ。
だが、市場が急速に膨らむにつれて、拭い難い違和感が筆者の心に影を落とし始めた。参入企業が増える一方で、女性のコンプレックスや不安を煽るような広告が目立つようになり、医学的根拠の乏しい商品への懸念も広がった。本来は女性を解放するはずの言葉が、いつの間にか個人の不安を収益化するための道具に成り下がっているように見えた。筆者は、これが本当に「女性のためのテクノロジー」と言えるのか、自らに問い直さずにはいられなくなった。
現在、フェムテックを覆う新自由主義的な空気は、構造的な問題を個人の責任へとすり替えているのではないか。記事で指摘されている通り、「格差や排除を問い直すはずの言葉が、むしろ市場の仕組みを正当化する」という逆説的な状況が生まれている。消費によって課題を解決しようとする市場の論理は、時に本質的な社会変革の歩みを止めてしまう。起業家として最前線に立ったからこそ見える、フェムテックの危うさと真の可能性を見極める必要がある。