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なぜシベリア抑留者は口を閉ざしたのか ソ連の赤化教育の実態

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Mika Nakamura
国際 - 20 6月 2026

ソ連軍によりシベリア抑留され、帰還した日本人将兵は50万人を超えるが、その多くが抑留体験について口を閉ざした。寒さと飢え、重労働、仲間の死-。思いだしたくもないのは当然だが、もう一つ理由があった。日本の共産主義化をもくろむソ連の赤化教育だった。

極東・ハバロフスクのラーゲリ(収容所)で、1人の男が壇上の男を糾弾すると他も同調した。

天井の梁に渡したロープが壇上の首に回され、男の体が宙に浮いた。苦悶がにじむ表情に鼻水が垂れ、絶命寸前で男は解放された。

ラーゲリの隣はソ連極東軍総司令部と裁判所。尋問や裁判で連行された将校や下士官がラーゲリに宿泊する度につるし上げた。

つるし上げの「議長」(進行役)を務めた元上等兵(90)はこう打ち明けた。ハバロフスクのラーゲリで「民主運動」という名の赤化教育が始まったのは昭和21年秋。労働を終えた午後7時ごろから1時間ほど、共産党員だった日本人が「共産党小史」を基に講義した。

見込みがある者は「小学校」「中学校」と呼ばれる教育機関に入れられ、さらに赤化教育を受けた。「中学校」を卒業した優秀者は、各ラーゲリの選抜メンバーとともに1カ所に集められ、3カ月間教育を受けた。収容所に戻ると指導的立場となった。

民主運動は次第に過激化し、将校や下士官だけでなく、共産主義に賛同しない者も次々に糾弾された。

日本人同士の密告も横行し、ラーゲリ中に人間不信が広がった。多くの抑留者が口をつぐむ理由はここにある。元上等兵は周囲にこう言い聞かせた。「日の丸の赤と白の部分を頭の中で入れ替えろ。赤に染まったようにカムフラージュするんだ」

ソ連が日本人将兵を抑留したのは「労働力」目当てだったが、途中からアクチブ(活動分子)を養成して日本を共産主義化させようと考えを変えた。赤化教育に利用したのが、ソ連軍政治部が週3回発行する抑留者向けのタブロイド紙「日本新聞」だった。編集長はイワン・コワレンコ。後に対日工作の責任者となり「闇の司祭」と呼ばれた男だった。

共産主義を礼賛し、天皇制や日本の批判を繰り返すプロパガンダ紙だが、日本語に飢えていた抑留者に次第に浸透した。共産主義に賛同し、アクチブと認定されれば、ラーゲリでの処遇が改善され、早く帰還できる。実に陰湿な心理作戦だが、効果は大きかった。旧軍の序列を維持しながら助け合ってきた抑留者たちは次第に将校、下士官、兵で反目するようになった。密告も横行し、相互不信が広がった。

関東軍情報将校(少佐)だった山本明(96)=兵庫県芦屋市在住=は昭和20年11月、タタルスタン・エラブガの将校専用のラーゲリに送られた。23年夏に「ダモイ」(帰還)といわれ、列車に乗せられたが、山本ら情報将校や憲兵約200人はハバロフスクで足止めとなった。

編集部注:この記事はAIを使用して作成されており、産経新聞の記事を元に、内容を変更せずにリライトしたものです。
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