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「秀吉を天下人にした男、豊臣秀長の実像」連載第32回で、作家の真山知幸氏がスポットを当てたのは織田信長の次男・織田信雄だ。信雄は1584年の小牧・長久手の戦いで徳川家康と手を組み、打倒秀吉の兵を挙げた。ところが戦いのさなか、信雄はいち早く秀吉と和睦してしまう。なぜ家康との同盟はここまで脆く崩れたのか。
信雄が秀吉への敵意を強めたのは、信長の死後に政権の実権を握った秀吉のやり方が、旧体制の正当な後継者である織田家の面目を踏みにじっていたからだ。家康もまた秀吉の台頭を警戒しており、利害が一致。同盟軍は長久手の戦いで秀吉の重臣・池田恒興や森長可を討ち取るなど、むしろ優位に戦いを進めていた。
しかし信雄は、自分が天下の覇者になろうとは考えていなかった。欲しかったのは、織田家の家督と自分の領地と面目を保つこと。秀吉もそこを熟知しており、信雄に対し「織田家の当主の地位を認める」という条件を示して単独講和を迫った。
戦いは家康が勝利に導いているにもかかわらず、信雄は敵将・秀吉の懐柔に乗ってしまう。もともと信雄には“反秀吉の盟主”という自覚は薄く、同盟は家康頼みの付け焼き刃だったのだ。和睦は家康に相談せず進められ、信雄の離脱を聞いた家康は抗戦の継続を断念せざるを得なかった。
この信雄の決断は、後世「なぜ家康と組んだ」と疑問視されるが、当事者から見れば合理的だった。勝っても負けても織田家が続けばよいと考える者にとって、条件の良い和睦は悪い話ではない。だが、天下を狙う者たちの戦いの場において、この「家和えの浅さ」は致命的だった。真山氏は、秀吉が信雄の器量を見抜いていたからこそ、強攻ではなく懐柔を選んだと指摘する。