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【藤本欣也の韓国探訪】降伏した倭人の里 歴史の荒波にもまれた沙也可の子孫たち

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Aiko Yamamoto
国際 - 21 5月 2026

韓国南東部の大邱(テグ)近郊に降倭の里がある。つまり、降伏した倭人(日本人)の村のことだ。今から424年前、豊臣秀吉の文禄の役で朝鮮半島に出兵したものの、李氏朝鮮側に投降した武将たちがいた。その子孫が住んでいるのだという。両国の歴史の荒波にもまれてきたであろう一族を追った。(慶尚北道達城郡友鹿洞 藤本欣也、写真も)

流れる汗をぬぐいながら、中心部でタクシーをつかまえ、運転手に場所を伝えても「分かりませんなあ」という。カーナビに住所を入力してもらい、走ること40分あまり。小高い山々に囲まれた、何やら懐かしい風景の中で車が止まった。降りると、直射日光が照りつけてきた。

そこが友鹿(ウロク)洞だった。降倭の里である。周りに人が住んでいないかのように静かだった。

石垣の塀に囲まれて、伝統的な書院や祠(ほこら)、門、顕彰碑などが立ち並んでいた。すぐ後ろの山に竹やぶも見える。

「賜姓金海金氏の始祖である慕夏・金忠善(キム・チュンソン 号 慕夏堂、字 善之)は本来日本人であり、日本名は沙也可である。1592年、文禄の役の際、加藤清正の先鋒(せんぽう)部将として韓国に上陸した。しかし平素より慕っている朝鮮という国は義・礼・智・忠と文化に優れた国であり、日本による朝鮮への侵略は不義であると考え、投降を決断し…」

そして、「兵士3000人」とともに朝鮮側に降伏したというのだ。「沙也可」という日本名はない。だから、さまざまな説が生まれた。

金忠善一族と友鹿洞の存在について、司馬遼太郎も著書「街道をゆく 韓のくに紀行」で取り上げている。40年以上も前の話である。司馬は沙也可について、「沙也門(さえもん)」が誤って伝わったもので、当時としては例外的に儒教的教養があったとみられる「対馬の武士」だったのではないか-と推測している。

また、金忠善が投降後、朝鮮側に火縄銃と火薬の製造技術を伝授したと記録されていることから、戦国時代、「雑賀(さいか)衆」と呼ばれていた、今の和歌山県の鉄砲傭兵(ようへい)集団の頭領との説もある。「さいか」が「さやか」と誤って伝わったという見立てだ。

「全部で5つぐらい説がありますよ。本当のところは分かりません。ハハハ」豪快に笑い飛ばすのは、沙也可こと金忠善から数えて12代目の子孫という金相保(キム・サンボ)氏(67)だ。現在、一族のまとめ役をしている。金相保氏は友鹿洞ではなく、大邱市内で暮らしている。先端産業の会社を経営し8年前に引退したという。祠のそばの「達城韓日友好館」で話を聞いた。

編集部注:この記事はAIを使用して作成されており、産経新聞の記事を元に、内容を変更せずにリライトしたものです。
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