早稲田ミョウガ、三宅島に渡る 猛暑避け練馬から栽培適地へ 江戸東京野菜・伝承の現場

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Mika Nakamura
経済 - 11 May 2026

江戸の食文化を彩った伝統野菜「早稲田ミョウガ」の地下茎30本が今春、東京都練馬区から伊豆諸島の三宅島に移された。火山灰土壌と海洋性気候の島が、都市化と猛暑に脅かされた“香りの記憶”の新天地となる。

JA東京中央会の「東京農業歴史めぐり」によると、江戸時代に早稲田村はミョウガの産地として知られた。穴八幡宮には豊作祈願の記録があり、神田川流域に自生していた。しかし宅地化で畑は減り、20世紀には生産の記憶が途絶えかけた。

徳川幕府が発行した「新編武蔵風土記稿」(1828年)にも紹介された早稲田のミョウガは大振りで香りがよく、薬味や漬物、汁の具などに用いられた。ミョウガを食べると物忘れをするという言い伝えがあったが、独特の風味は江戸庶民に好まれた。

明治15年に大隈重信が東京専門学校(後の早稲田大学)を創立して以降、宅地化が進行。水田とともにミョウガ畑も減少し、現代では早稲田のミョウガを味わうことはできなくなっていた。

復活は平成22年に始まる。早稲田の旧家の庭で地下茎が見つかり、井之口喜実夫さん(78)が“かつての香りを甦らせたい”一心で育成を始めた。

「まさか残っているとは思わなかった。土の中から赤い芽が出た時、震えが走りました」

しかし試験栽培を依頼した8軒の農家ではすべて失敗。唯一生き残った株から数年かけて選抜と育種を重ね、出荷に耐える品質を取り戻した。

復活した早稲田ミョウガは香り高く、丸みを帯びた赤い姿が特徴。料理人に高く評価され、平成27年以降は商店街や新宿区の学校給食、豊洲市場にも広がった。

「『早稲田』という名前は地域の記憶そのもの。単なる作物ではなく、文化を継ぐ象徴です」。井之口さんはこう振り返る。

再生から十余年、東京の夏はかつてない暑さとなり、練馬の畑では地温が40度を超える日も。遮光ネットや自動潅水を駆使しても根腐れが止まらず、井之口さんは「露地ではもう無理」と判断した。

JA東京中央会が代替地候補に挙げたのが三宅島だ。火山灰質で水はけがよく、外来種子が入りにくい島の地理は系統保存に適している。島の農家は「一緒に守りましょう」と快諾し、毎月写真付きの栽培リポートが届く。

過去には株分けした地下茎が全滅した経験があり、今は島以外に渡さず、栽培者や方法を記録し管理体制を徹底する。「種を守るとは、過去を引き受け未来に渡すこと。農家は作物を売るだけでなく文化を継ぐ役目がある」と語る。

練馬での再開は気象条件次第で、冷房付きハウスなどの施設栽培も視野に入れるが、コストや土地の制約は大きい。

「これは避難ではなく、未来のための拠点づくり。今は島を拠点に命を細く長くつなぐ段階です」。一本の地下茎からつなぎ直された香りと記憶。気候変動が厳しさを増す中で、江戸の味は静かに未来への道を探っている。(取材協力 JA東京中央会)太田道灌が江戸城を築いてから130年後、徳川家康が江戸に入り現在の東京の礎を築いた。1653年には玉川上水が開通し、農業生産が増加。大八車や川舟で農産物が運ばれるなど、江戸と東京の農業は長い歴史を持つ。江戸時代から昭和中期まで栽培された伝統野菜「江戸東京野菜」はどのように引き継がれているのか、その生産現場を歩く。

編集部注:この記事はAIを使用して作成されており、産経新聞の記事を元に、内容を変更せずにリライトしたものです。
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