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昭和56年、開幕から原辰徳が二塁手に起用されることが決まった。そんな中、篠塚和典の元にミスターこと長嶋茂雄から一本の電話が入る。「シノ、腐るなよ。必ずチャンスはくる。それに向かってしっかりと準備しろ。試合というものを常に意識しながら練習しろよ」。開幕前日(4月3日)の出来事だった。
「そういう状況をミスターも見てくれていたんですね。僕がもうベンチだということを察して電話をくれたんです」と篠塚は振り返る。ミスターの言葉が支えとなり、開幕後1カ月は守備要員や代打での出場だったが、「逆に楽しかった。練習でも実戦を想定していろいろ考えながらやってました」と語る。
チャンスは突然訪れた。5月4日の阪神戦(後楽園)。四回の攻撃で一塁走者だった中畑清が二塁へのスライディングで岡田彰布と交錯。左肩を痛めて途中退場となった。診断は「左肩鎖関節靱帯損傷」と意外に重傷だった。
ベンチに戻ってきた中畑に「大丈夫ですか?」と声をかけると、「まあな…」と返事があったが、腕は全く上がっていなかった。すると王貞治助監督が篠塚の方を向いて「シノ、次の回から行くぞ」と告げた。場内アナウンスが流れる。
「(…三塁中畑に代わりまして二塁篠塚、二塁の原が三塁に回ります…)」——その瞬間、スタンドがワーッと地鳴りのような歓声に包まれた。「原、三塁…」のときだった。ロッカーにいた中畑にもその歓声が響き、「オレ、もうサードに戻れない」と思ったという。
「これは運じゃないけど、あのシーンがきっかけでチームが落ち着いた感じになっていた気がします」と篠塚は振り返る。後楽園のロッカーにはスタンドの歓声が響く構造だった。
そして5月9日、大洋(現DeNA)戦(横浜)で「3番・セカンド篠塚」が誕生した。試合前、山崎弘美マネジャーが「シノ、お前、3番だよ」と告げると、思わず「ウソでしょ」「冗談言わないでくださいよ」と返したという。「冗談じゃねぇよ」と言われて事実だと知った。
緊張の中での初打席、篠塚はタイムリー二塁打を放った。その1打でプレッシャーが消え、この試合は5打数4安打4打点と大爆発。4安打は自身の新記録で、猛打賞(1試合3安打以上)も初体験だった。「自分でも驚くほど、すごかったですねぇ(笑)。チームも7対3で勝った。今でも印象深く、一番の思い出として記憶に残ってます」と語る。
この試合が自身の分岐点になったと篠塚は言う。「レギュラーとして出場しても普通の成績なら、中畑さんが帰ってきたとき、また代えられちゃうんじゃないかという不安もあった。でもあの日、自分の中に少しは自信みたいなものが芽生えていた」。
「中畑さんが戻ってきても僕をスタメンから外せないという数字を残さなきゃいけない。それで頑張りましたよ。監督、コーチ、選手、またファンの人に納得させる。そんな圧倒的な数字を残す。そういう思いでやってましたから」——その後の試合で篠塚は打ち続け、スタメンから外されることはなかった。
守備でもスーパープレーを見せた。七回、福嶋久晃の中前に抜けようかという打球を二塁ベース後方で捕球し、遊撃手の河埜和正にトス。一塁手・山本功児に転送されてアウトにする好守だった。「ちょうど河埜さんもいいところにきてくれた。その姿が見えていた。逆シングルで捕った体勢で投げても間に合わないと思ったからトスした。グラブトス?違います。足のステップを使って基本通りに投げました。それが自分の守備スタイルです」。
「当時、守る方は普通にできる。とにかく打つ方で結果を出そうと思っていました」と篠塚は締めくくる。(聞き手 清水満)