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日本が京城帝国大学のために、優秀な人材と莫大なカネを投入したという話を書きたいと思う。
『紺碧遥かに 京城帝国大学創立五十周年記念誌』(昭和49年、同大同窓会刊)にある資料を参照したい。
赤痢菌を発見した志賀潔(しがきよし)は初代医学部長を務めた後、総長に就任(在任昭和4~6年)する。後に旧制一高(東京)校長、文相、学習院院長などを歴任する安倍能成(あべよししげ)は初代法文学部長だった。
『京城帝国大学一覧 昭和17年』(同大刊)によれば、総長は勅任官であり、勅任官あるいは奏任官の専任教授は、法文、医、理工の3学部で計109人、助教授(奏任官)は計78人いた。さらに、助手(判任官)が137人、書記(同)27人、など。このほか、予科の教授・助教授が33人である。
法文学部の講座には「朝鮮史学」「朝鮮語学」「朝鮮文学」「支那哲学」「支那語学」「支那文学」などが設けられ、地元の朝鮮をはじめ、東アジアの学問・研究の拠点のひとつでもあったことは目を引く。
『紺碧遥かに…』に寄稿された元法文学部教授の一文がある。それによれば、東京帝大出身の、その教授(文の筆者)をスカウトするため、当時の朝鮮総督が直々に乗り出したらしい。
託された仕事は、朝鮮人の教育、学力向上に寄与すること。朝鮮伝統の「書堂(ソダン)」と呼ばれる寺子屋風の初等教育機関でしか学んでいない朝鮮人児童でも読めるように「ハングル書きで、総挿絵入り」という、目で見ても子供たちが楽しめるような読本をつくることだったというから驚かされる。
というのも、朝鮮には15世紀に朝鮮国王が命じてつくらせた独自の表音文字(ハングル)があったのに、中国由来の漢字を重んじるばかりに、「低く」見られ、「軽んじられて」きたからである。
ハングルは母音と子音を組み合わせた合理的なつくりで、かつ漢文の知識がなくても文字を読める。そのハングルを見直し、普及に努めたのも明治時代に朝鮮で新聞発行などを行った日本人たちであった。
京城帝大に日本から投じられたおカネもすごい。『紺碧遥かに…』の資料にある大正15・昭和元年度の予算額は約116万円。昭和13年度には200万円を超え、大戦下の17年度には、理工学部(16年創部)の経費が膨らんだのか500万円を突破している。当時の1円=2千円で換算すれば、現価で毎年、数十億~100億円が同大のために、投じられていたということになるだろうか。
敷地は広大だった。京城府東崇町(当時)や道路を隔てて隣接していた同府蓮建町(同)などにあった大学本部、法文学部、医学部、附属図書館が約9万坪、同府清涼里町(同)の大学予科が約3万3千坪。楊州郡にあった理工学部は約16万5千坪。他に理工学部付属の生薬研究所(開城府=当時)が約4万1千坪、済州島試験場が約2万2千坪、附属医院は約2万6千坪…などなど。
また、『京城帝国大学予科一覧 昭和3年』によれば、文科・理科で計300人以上になる入学者の出身校は、朝鮮内が過半数を占めたが、地理的に近い九州が計28人をはじめ、東京からも10人など、内地からの入学者も少なくなかったことが分かる。
日本統治時代の朝鮮はスポーツも盛んになった。朝鮮では「儒教文化的価値観」の影響で体育も長く、軽んじられてきたが、内地から渡ってきた指導者の尽力や、競技場などの整備、そして何より、学校教育の場での振興によって、近代スポーツの普及が図られる。ラグビーや野球などでは全国大会レベルで活躍するチームも現れた。
『紺碧遥かに…』には、大正13年の京城帝大予科の創立時に発足した「柔道部」の回想記が柔道部長を務めた元教授によって記されている。
当時の学生柔道界は、旧制高校・専門学校による、寝技中心の、いわゆる「高専柔道」が中心で、金沢の四高や、岡山の六高などが強豪校として知られていた。
創立間もない京城帝大予科もその闘いの中に加わる。ただし、同大予科の柔道部員には寝技よりも立ち技を得意とする学生がいたらしい。このため、最初から寝技に持ち込もうとする内地の学校に対し、京城帝大予科の部員が「立って来い!」と呼びかければ相手は「寝て来い」という応酬が続いたというから興味深い。
当時、日本の強い影響下にあった満州の学校もまた、日本人指導者の尽力で近代スポーツが盛んになっていた。柔道もしかり。先の回想記には、京城帝大柔道部が満州へ遠征し、旅順工科大や満洲医大の柔道部と毎年、白熱する「鮮満戦」を行ったことも書かれている。
このとき、満州遠征に参加した京城帝大柔道部員の中には卒業後、当時の学生にとって人気企業だった南満洲鉄道(満鉄)に入った部員もいたらしい。満鉄柔道部もまた強豪で有名だった。
陸上競技も盛んになる。『紺碧遥かに…』によれば、京城帝大陸上部が中心となって、昭和8年に「朝鮮学生陸上競技連盟」が発足。同大と九州帝大の間で4年度以降、陸上競技の「定期戦」が設けられ、1年ごとに互いの地でトラック、フィールド競技で覇を競い合った。記録にある11回(昭和13年度)までの総合成績は、九州帝大の7勝に対し、京城帝大は4勝にとどまるが、8~10回までは、京城帝大側が3連覇を果たしている。
こうした関係者の努力によって、朝鮮の陸上競技は盛況をなすことに。ベルリン五輪のマラソン競技で、朝鮮出身の孫基禎が金メダル、南昇竜が銅メダルに輝いたのは1936(昭和11)年のことであった。
『紺碧遥かに…』には、朝鮮半島最高峰(2744メートル)の白頭山への冬季登行記録も載っている。白頭山は、現在の中朝国境にそびえる火山で、今なお、朝鮮民族生誕の地と崇(あが)められている聖なる山だ。
近代登山として同山の冬季初登頂は京都大隊が達成(昭和9~10年)している。同書によれば、それは来たるべき「ヒマラヤ遠征のテスト」であるとの噂が流れ、京城帝大の山岳関係者を大いに刺激したらしい。昭和16年12月、同大「山の会」が中心となった冬季登攀(とうはん)隊が山頂を目指して出発。酷寒、荒天の中、翌年1月、部員は頂上にたどり着き、頂上にある天池の調査を行ったという。=敬称略(喜多由浩)