
神奈川県の藤沢と鎌倉を結ぶ全長10キロのローカル線、江ノ電。アニメ『SLAM DUNK』の聖地としてアジア圏を中心にインバウンド客が殺到し、近年は昼間の車内が身動きできないほどの混雑に見舞われている。経営は黒字だが、線路や駅の抜本的な拡張が物理的に不可能で、需要増に対応できない――好調ゆえのジレンマに直面している。
国土交通省の調査によれば、江ノ電の混雑構造は劇的に変わった。2023年度は朝7時台の通勤・通学時間帯に藤沢~石上間で混雑率99%だったが、2024年度には終点・鎌倉から和田塚間の午後2時台に146%へと跳ね上がった。昼下がりがピークとなるケースは、他の鉄道会社ではほとんど見られない。観光客の集中が、利用実態を根底から塗り替えたのだ。
とはいえ、経営はいたって堅調だ。2024年度の鉄道部門営業収益は約33億円、営業損益は約6億円の黒字。中小私鉄としては安定している。かつて1960年代には自動車社会の波で利用者が激減し、廃止論も出たが、その後観光需要の回復に支えられて業績は改善。現在は4両編成が基本となり、1990年には累積赤字も解消した。ところが、設備投資の限界が新たな壁となって立ちはだかる。
最大の理由は、全線が単線であることだ。上下線の列車は途中駅や信号場でしかすれ違えない。交換設備の位置に合わせてダイヤが組まれているため、平日も休日もほぼ終日14分間隔の運行。朝夕や昼間に増発する余地はない。路線の大半は狭い市街地や海岸沿いを走り、複線化のための用地は皆無。ホームも4両編成がぎりぎりで、腰越駅では一部の車両がドアを開けられない。
この制約は、120年以上前に地域内の小規模輸送を前提に整備されたことに起因する。開業当時、現在のような観光需要を予測するのは不可能だった。1970年代以降に業績が回復すると新型車両の導入などサービス改善が進んだが、すでに沿線の宅地化が完了しており、線路設備を大きく改良する余地は残っていなかった。
そこで江ノ電が打ち出したのが、「増やせないなら効率を高める」という発想の転換だ。2007年、首都圏私鉄で唯一、磁気式プリペイドカード「パスネット」を経由せずに一気に交通系ICカード「PASMO」を導入。券売機の混雑緩和と駅業務の効率化に成功した。2023年にはクレジットカードのタッチ決済も先行導入し、インバウンド客の利便性を高めている。さらに2026年4月に営業運転を始めた新型車両「700形」は省エネ性能を高めるとともに、将来のワンマン運転を見据えて安全確認用カメラを搭載。人件費や動力費の削減を図る。
鎌倉市は沿線住民向けに優先通行証明書を発行するなど、生活交通を守る対策も進める。だが、線路や駅の拡張は難しいまま。江ノ電の事例は、インフラが一度整うと後から抜本的に変えにくいという現実を浮き彫りにしている。将来の需要予測は難しいが、需要急増後に対応しようとしても土地やコスト、周辺環境の制約で手が出せなくなるケースは少なくない。だからこそ、環境変化に合わせて運営コストを柔軟に抑える体制をどう築くかが、長期的な競争力を左右するのだろう。