
成田空港が開港から48年を迎えた。今年7月4日には建設の閣議決定から60年という節目も控える。そんな折、今年3月、かつて激しい反対闘争を主導した元幹部が、拡張工事を進めるため国に対し土地収用法の適用を求める動きに出た。「強制収用」という、長年にわたって封印されてきた手段が再び俎上に載せられたことになる。半世紀近くにわたる成田空港問題の歴史は、いま新たな局面を迎えている。
開港は、まさに波乱の幕開けだった。昭和53年3月30日、滑走路1本での暫定開港が決まったが、そのわずか4日前の3月26日、管制塔が過激派に襲撃された。結局、出直し開港は5月20日にずれ込んだ。この事件は、反対運動が決して終息していないことを象徴していた。
その後の拡張工事——2本目、3本目の滑走路建設——をにらみ、福田赳夫内閣は反対派の一部幹部との秘密交渉に乗り出す。仲介役を務めたのは、共産主義者同盟(通称・ブント)系の活動家グループと、戦前の血盟団事件に関わった四元義隆氏という、異色の組み合わせだった。当時、誰もがその成否を固唾をのんで見守った。
交渉は大平正芳内閣に引き継がれ、政府側の窓口となったのが、安保闘争の時代にブントと接点を持っていた加藤紘一官房副長官(後の自民党幹事長)だった。昭和54年6月、加藤氏と反対派幹部は画期的な覚書に調印する。その内容は、①二期工事は凍結し話し合いで解決する、②土地収用法に基づく一切の強権発動をしない、③政府と反対派は公開討論集会を実施する——というもの。この覚書は官邸主導でまとめられ、運輸省(現・国土交通省)には直前まで知らされていなかった。
この「話し合い路線」は、日本の公共事業史に特異なケースとして刻まれた。収用という国の強権を自ら放棄したからだ。しかし、今年3月、その路線を自ら主導した元反対派幹部が、国に対して「土地収用法の適用を検討してほしい」と要請した。半世紀近くを経て、揺れ動く当事者の事情と、変わる時代の空気。加藤氏ら多くの人々が築いてきた対話の遺産は、いま問い直されている。