沖縄発「スッパイマン」、低迷からV字回復で年商15億円に コラボ戦略が奏功

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Mika Nakamura
エンタメ - 03 6月 2026

沖縄を代表する乾燥梅菓子「スッパイマン 甘梅一番」が、全国的な人気を博している。アメリカンコミック調のヒーローが描かれた赤と黄色のパッケージと、ほどよい甘酸っぱさが特徴で、いまや全国のスーパーやコンビニで目にする機会が増えた。

製造する上間菓子店(沖縄県豊見城市)は今年で創業60年を迎え、スッパイマン誕生から45年の節目でもある。

2000年、俳優の木村拓哉さんが音楽番組で「沖縄で食べたスッパイマン」と発言したことで知名度が急上昇。ピーク時には年商10億円以上に達したが、その後は競合の増加などで約3分の1にまで落ち込んだ。

しかし近年、戦略的なブランディングが奏功し、2024年度から2期連続で過去最高の売上高を更新。2025年度は初めて15億円台に乗り、今期もさらに更新する見通しだ。

どのようにV字回復を実現したのか。3代目社長の上間幸治氏に話を聞いた。

上間菓子店の創業は1966年。上間氏の父で、創業者の上間信治氏が那覇市の農連市場で営んでいた菓子卸売店が原点だ。二次問屋、三次問屋として地域の駄菓子屋などに商品を供給していたが、1972年の沖縄の本土復帰を機に製造業への事業転換を決意した。

「創業者は、本土復帰で全国企業の沖縄進出が進めば、二次問屋、三次問屋という立場では、いずれ経営が厳しくなると分かっていました。一方で、高度経済成長期にあった当時の日本はメーカーが最も強い時代だったので、自分たちもメーカーになった方が良いと考えたんです」

そこで着目したのが乾燥梅だった。県外ではまだ一般的ではなかったが、温暖な気候の沖縄では、当時から台湾や中国から輸入された乾燥梅を日常的に食べる文化が根付いていた。「まだ熱中症という言葉は一般的ではなかったのですが、その予防で塩分やクエン酸を取る習慣があったのではないでしょうか」と、上間氏は推測する。

ただ、本土復帰に伴い、日本では使用できない甘味料を含む乾燥梅の輸入が制限されることになった。そこで信治氏らは国内で使用可能な天然甘味料を探すとともに、台湾で製造技術を学びながら商品開発を進めた。

当初は1粒10円のように粒単位で販売していたが、単価を上げるために現在のパッケージ売りに転換。さらに、沖縄県内だけでは市場が限られるため、1990年代から食品展示会に参加するなどして県外市場の開拓に乗り出した。信治氏を先頭に、長男で現会長の上間政博氏(2代目社長)、次男の上間社長も同行し、親子で営業した。

しかし、当時は「沖縄に売るものなんかないでしょ」と冷ややかな反応を受けることもあった。3日間の展示で受注額は10万~20万円程度。渡航費などを考えると完全な赤字だった。

それでも出展を続けた。やがて、この行動が大きな意味を持つことになる。

転機は2000年。生放送の音楽番組で、俳優の木村拓哉さんが司会者から「今年の夏の思い出は?」と聞かれ、「沖縄で食べたスッパイマン」とコメントした。すぐに消費者や問屋から問い合わせが殺到。情報番組や雑誌でも取り上げられ、次の展示会では受注額が3000万円規模に急拡大し、一気に販路が広がった。

それまで1億円ほどだった年商は、3億円、5億円と右肩上がりに伸び、ピーク時には10億円を超えた。地方の小さなメーカーが急激な需要増を取り込めた理由がある。

「展示会に出続けていたことで、量販店が『あの時の展示会に出ていた商品だ』と気付き、すぐに問屋経由で連絡をくれたんです。こういった動線がなければ、商流に乗る前にブームが終わっていたかもしれません。点と点が線でつながる感覚を初めて経験しました」

ちょうどこの頃、20代前半で家業に合流したばかりだった上間社長。前職は大阪のアパレル店で、わずか4坪の店舗で月商1000万円を達成した経験を持つ。上間菓子店ではECなどを担当しながらアパレルの法人を立ち上げ、事業運営のノウハウを積み重ねていった。

2008年と2009年には沖縄県立高校の写真部、デザイン部とコラボ企画を実施。「スッパイマンを食べた人の酸っぱい顔写真展と、スッパイマンTシャツの制作販売を行いました。アメコミ風のヒーローは、この時にデザイン部の学生が描いてくれたものです。これらの企画は多くのメディアが取材してくれて、意外性が関心を呼ぶことを実感しました」と振り返る。

他ジャンルとのコラボでブランド価値を引き上げる—後の飛躍のヒントとなる原体験だった。

ただ、好調な時期は長くは続かなかった。2013年ごろには年商がピーク時の3分の1程度の4億円台にまで落ち込んだ。上間社長は低迷の主な要因を3点に集約する。悪循環に陥り、社内の挑戦マインドが薄れて効果的な施策を打てずにいた。

苦境を打破しようと、2013年に始めたのが、当時社長だった上間政博会長が構想していた本社での工場見学と直営店展開だ。運営は上間社長が担い、自身でガイド役を務めながら来場者と対話した。以前、売り上げを伸ばせずに失敗経験のあったイベント出店にも再挑戦すると、ある事実が見えてきた。

「昔から好きだったんです」「また食べたくなりました」。県内外から訪れる来場者たちが、目を輝かせ、笑みを浮かべながら口々に言った。接客対応する中で、上間社長は確信した。

市場が求める商品、そしてブランド力を高める売り方とは何か。本格的な改革に着手した。

1つ目は「意外性」。多くのメディアを引き付けた高校生とのコラボのような、起爆剤となる企画が必要だと考えた。もう1つは「物流コストの軽減」。離島である沖縄は県外輸送コストが高いため、費用を抑えながら販路を広げる糸口を探った。

導き出した答えが、他社メーカーとのコラボ商品開発だった。乾燥梅菓子としてのスッパイマンだけでなく、品種や品目を超えて横展開していく。さらに県外で生産してもらえれば物流コストも抑えられる。ふりかけ、エナジードリンク、いか天など、梅味を生かした商品を次々に投入した。

すると「第2のバズり」を起こす商品が誕生する。愛知県の豆菓子メーカーが製造を担う「スッパイマン 柿ピー一番」だ。2017年、テレビ番組の柿の種特集で取り上げられ、タレントのマツコ・デラックスさんが「おいしい。これ止まらない」と絶賛。注文が殺到し、放送翌日にはサーバーがダウンした。

偶発的だった2000年の反響とは、そこに至るまでの過程に明確な違いがあった。「意外性を狙い、商品を横展開したからこそ起きた現象で、戦略通りでした。他の市場でスッパイマンの認知を広げたことで、そこから乾燥梅の商品を知ってくれた人もいました。自分たちが向かうべき道筋が決まるような出来事でした」と、上間社長は振り返る。

コラボ戦略はさらに大きな広がりを生む。さまざまな商品やキャラクターとコラボする中で、潮目が変わったのは2020年から。それまで以上に大手企業、ブランドから協業の声がかかるようになる。

まず流れを作ったのはカルビーのポテトチップスだ。地方の味を開拓する商品展開の一環で、2020年にスッパイマン味を発売した。その後、機動戦士ガンダムやポケモン、ちいかわ、スーパーマリオなど、日本が世界に誇るアニメ・ゲームキャラクターが「スッパイマン 甘梅一番」のパッケージを次々と彩っていった。

スッパイマンは消費者の7割を女性が占める。上間社長は「コラボ先企業の女性社員にスッパイマンが好きな方がいて、推薦してくれるケースが多いです。ユニクロとコラボした時もそうでした。各社とも、スッパイマンのブランド力とコラボの意外性から、ある程度の売り上げを見込めると判断してくれています」と手応えを語る。

2023年に外部調査会社に依頼したリサーチでは、スッパイマンの全国認知度は70%超に達した。上間社長が「ブランドは認知度が50%を超えたあたりから、一人歩きして営業を取ってきてくれるんです」と言うように、商品自体が力のある営業パーソンとなっている。

その間、上間政博会長が統括する営業部は全国の量販店で販路を拡大。さらに、沖縄企業として初めて、大手コンビニ2社向けのプライベートブランド商品3アイテムを展開。商品には「スッパイマン」のロゴも採用された。結果、2025年度の年商は初めて15億円を突破。2030年度には30億円規模を見据える。

ただ、それはゴールではない。創業60周年を迎えた今、上間社長は「沖縄から100年続く全国ブランドを目指します」と言い切る。背景には、太平洋戦争で地上戦が行われた沖縄の歴史がある。

「沖縄は戦争で経済が一度リセットされたため、全国区の100年ブランドはほとんどありません。だからこそ、沖縄で生まれ、沖縄の人が経営し続けている会社がストーリーを作ることで、他ジャンルとの連携も生まれ、沖縄経済の発展につながると思っています」

新たな市場開拓にも余念がない。2022年から展開するアパレル・グッズ店「スッパイマンショップ」は限定商品をそろえて誘客を図ることで、那覇市と北谷町の2店舗とも単体で黒字を確保。3年間連続で昨年同月比を上回る売り上げを出している。

近く、乾燥梅の海外展開へ本格的に乗り出すほか、周年企画ではスッパイマンヒーローの特撮風CMを制作し、ローカルの民放テレビやSNSで公開。Instagramでは20万回近く再生された。今後、IPビジネスに本腰を入れていくつもりだという。

創業者の「ヒーローのように沖縄から全国へ、そして世界へ羽ばたく商品になってほしい」という願いが込められたスッパイマン。上間社長一家と従業員が一丸となって育ててきた唯一無二のブランドは、その価値を着実に高めてきた。展示会で相手にされなかった時代も、年商がピーク時の3分の1まで落ち込んだ時代も、試行錯誤をして活路を切り開いてきた“ヒーロー”の物語は、まだまだ終わらない。

編集部注:この記事はAIを使用して作成されており、産経新聞の記事を元に、内容を変更せずにリライトしたものです。
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