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天正6年(1578年)、荒木村重が織田信長に反旗を翻した事件は、丹波国にも大きな動揺をもたらした。各地で約2000人の民衆が蜂起し、戦乱の混乱に乗じて略奪や騒乱が発生した。
丹波攻略を担っていた明智光秀は、飢餓に苦しむ民衆に対して容赦ない姿勢を取った。光秀は蜂起した民衆を「叛逆者」とみなし、食料を求めて集まった飢餓者を切り捨てるという冷酷な対応で知られる。
一方、同じ丹波で活動していた豊臣秀長(当時は羽柴秀長)は全く異なる手法を採った。秀長は民衆に銀を直接配布し、食料や生活物資を供給することで彼らの信頼を獲得。飢えに苦しむ者への施しを惜しまなかった。
光秀の厳しい態度は恨みを買い、後に本能寺の変での孤立を招く一因となる。秀長の懐柔策は民衆の支持を集め、丹波一帯の安定に寄与し、兄・秀吉の天下統一を支えた。
秀長の「飴と鞭」の戦術は、敵には厳しく味方には寛大に接することで人心を掌握するものだった。この対応の差は、戦国武将としての器の違いを如実に物語っている。