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ヒトの人工多能性幹細胞(iPS細胞)から作られた2つの治療製品が3月、条件・期限付き承認を受けた。源流は20年前、若手研究者が予想外の結果を拾い上げ、指導教授が疑いの目で何度も再現を求めた実験室の日々にある。世界を変えたiPS細胞は、若手に裁量を与え、議論を重ねる研究環境から生まれた。京都大iPS細胞研究所(CiRA、サイラ)は、その精神を受け継ぎ、新たな「0から1」への挑戦を続けている。
iPS細胞の生みの親である山中伸弥氏の研究室に草創期から加わったのが、現在は同大准教授を務める高橋和利氏(48)だ。高橋氏は、実験の手ほどきや実験ノートの書き方をはじめ、研究者としての心得を山中氏から直接教わったという。
当時の研究室は、人の皮膚などの細胞を様々な細胞へ変化できる状態にする遺伝子の探索を進めていた。研究が盛んだった胚性幹細胞(ES細胞)を使い、目星を付けた遺伝子を約5年かけて調べ、候補を24個に絞った。高橋氏はそれらを1個ずつマウスの皮膚細胞に入れたが、どれも成功しなかった。
実験台には24個の遺伝子が少しずつ残っていた。高橋氏は「もったいない」と思い、山中氏に相談せず、自分の判断で全遺伝子を細胞内で混ぜた。するとES細胞に似た黒っぽい細胞の塊が現れた。「山中先生も、そんな実験をしているとは知らなかったはずです」と高橋氏は振り返る。
報告を受けた山中氏は「何かの間違いではないか」と疑った。同じ培養室で実験に使用していたES細胞が混じった可能性もある。そこで高橋氏は実験を繰り返し、同じ結果を何度も確認した。その上で24個の中から不要な遺伝子を1個ずつ抜いていくと、後に「山中4因子」と呼ばれる4個が残った。これで初期のiPS細胞ができ上がり、平成18年にマウスでの樹立を発表。翌19年には人の細胞でも成功した。
高橋氏は「運が良かったことは間違いない」と話す。だが、その偶然が画期的な成果につながったのは、約5年の蓄積を得た若手が、自分の判断で一歩踏み出せる環境があったからだ。